■「筑前今宿歴史かるた」から今宿の歴史を学ぶ47最終回
今宿五郎江遺跡後編
今回は五郎江遺跡から出土した遺物についてご紹介いたします。
昭和の時代、今宿小学校に通った方々は校庭の片隅などで弥生時代の土器の破片を目にする機会がよくあったようです。
通常では考えられないことですが、今宿に住む人々にはそれほど身近に遺物がありました。五郎江遺跡からは多数の出土品が出ていることは前号でもお伝えしましたが、この中には朝鮮半島や中国大陸との交流をうかがわせる遺物も多数見つかっています。
楽浪郡(朝鮮半島北部の郡)で作られた土器や銅製品、鉄製品などに加えて中国の※1新の時代に鋳造された貸泉や半両銭大泉五十と呼ばれる銭貨も合わせて10枚出土しています。銭貨は他に元岡遺跡や糸島市御床松原遺跡・新町遺跡でも出土しています。
この遺跡に共通しているのは何れも※2伊都国を支えた港湾集落であったことです。
また木製の短甲(よろい)、楯、銅鏃(やじり)なども出土しており、ここが伊都国の東端に位置することから伊都国の東の護りを担っていたと考えられています。
その他、海の側に立地している集落(遺跡)のため、瀬戸内海地域から搬入された土器、木製のヤス、網枠、石錘などの漁撈具も多数見つかっています。
五郎江遺跡の調査書の中では、※3魏志倭人伝の中に弥生時代の終わりごろの伊都国のことが書かれており、五郎江遺跡が伊都国の重要な環濠集落であったことの確認にとどまらず、今津湾に面したこの集落が弥生時代には、対外的に重要な役割(伊都国の中で)を担っていた可能性がいっそう強くなってきたと書かれています。
また伊都国の中心地とみなされる三雲・井原遺跡の周辺には今宿の五郎江遺跡だけでなく元岡・桑原遺跡群、潤地頭給遺跡などの大規模な遺跡群が分布しています。
出土物から推測される五郎江遺跡に暮らす人々は大きな環濠集落を形成、海を渡って交易を行い、鎧で武装し、中国の銭貨を使用(利用)する、私達が抱くイメージよりずっと高度な文明のもとに暮らしていたようです
今宿小学校の正門前には遺跡を示す立て看板が設置されています。普段は何気なく目にしていると思いますが、ぜひ立ち止まれて一度ゆっくりとご覧ください。
※1 新(8~23年?)は前漢と後漢の間の僅かな期間に存在した中国王朝のためこれが入ってきた年代がかなり正確に特定される。
※2この地域一帯は魏志倭人伝にある伊都国に含まれる地域と考えられている。
※3 中国の歴史書。正確には「三国志」の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条。
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平成26年4月号から始まったこの企画も今回で最後になりました。「筑前今宿歴史かるた」は平成12年に今宿公民館高齢者教室で作成されたものです。これを作られた当時の方々の想いを感じながら、関係者の皆様のご協力や読者の皆様に支えられて最終号を迎えることができました。約4年間の長きに渡って応援して下さった方々に感謝申し上げます。本当にありがとうございました。これからも今宿の歴史については機会を見つけてタイムズに載せていきたいと思っています。
(田中)
参考文献
大内士郎氏提供資料他写真提供
福岡市埋蔵文化財センター