■「筑前今宿歴史かるた」から今宿の歴史を学ぶ44
今宿が江戸時代、宿場町だったことはよく知られています。そもそも宿場の始まりはいつ頃でしょう。
調べるとその起源は中国にありました。中国では律令制の施行に伴い、国内に官道を設け、各地の連絡を行いました。
官道の往来は馬が主流で、そのため途中で馬に対する給餌や馬の乗り換えが必要でした。
また旅行者にも宿泊所や休息所が必要でした。このために道にそって適当な間隔で駅が設けられました。
駅を伝わって往来し通信や交通を行う、これを駅伝制といいます。
日本でも中国に倣って、古代律令制の成立と共に駅伝制が導入され、官道を整備、駅を各地に設けました。
大化の改新(大化2年・646年)の際の詔や大宝律令でも駅や駅に置く馬の頭数が記されています。
平安時代末期の律令制の弛緩に伴い一旦、駅制度は衰退します。
しかしその後、駅は宿や宿場と言い換えられ、江戸時代の街道整備へと繋がっていくのです。
近世の宿場の整備は徳川家康の天下統一後、東海道(慶長6年・1601)から始められて行きました。
唐津街道は17世紀末に長崎街道の脇街道として整備されました。
物資の輸送はもとより、沿線の黒田藩、唐津藩の参勤交代にも使われました。唐津街道が整備された当時、姪浜宿の次は前原宿でした。
しかし、このふたつの宿場の距離が遠かったために、その中間点に新しい宿場が設けられました。これが今宿です。
「今」という漢字には新しいという意味があり、「今宿」と名付けられました。
1700年代初め頃には宿場町今宿は存在していたようです。
町の東側には搆口と呼ばれる土塀で築かれた大きな門がありました。
その近くには馬を使って人や物資を運ぶ仕事を生業としていた馬子(馬士)達が馬を繋ぐための石柱、馬つなぎ石がありました。
この門があった所は現在の今宿交差点付近になります。
「羽瀬製菓」から国道202号線沿いに100Mほど周船寺よりの辺りを「門際」といい、今も馬つなぎ石が置かれ、その側にはかるたの読み札が立てられています。
今宿の馬つなぎ石には大きな特徴があります。それは今山で採れる柱ちゅうじょう状節
理の玄武岩を使っていることです。
調べてみると全国の宿場町では馬を繋ぐ柱に石を使っていたところも少なくありません。
しかし、石塔のような形状の石に穴を開けてそこに綱を入れられるようになっているものや、鉄の輪を取り付けて繋げるようになっているものはありましたが、今宿のような真っ直ぐな石柱は見当たりませんでした。
柱状節理とは岩体に入る柱状の割れ目で、マグマが冷却する際に収縮して生じます。
今山で採取されるこの石は弥生時代には石斧として量産され、元寇防塁にも使われるなどしてきました。
簡単に柱状に割れるこの石は馬を繋ぐ柱にぴったりだったことでしょう。
馬が輸送に使われなくなり、馬つなぎ石はその役目を終えましたが、今宿では未だ当時の姿のまま見ることができます。
(田中)
参考資料 デジタル大辞典など
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