この読み札は今宿の二宮神社で行われている玉せせりを詠んだものです。
最近、アイドルグループ嵐で一躍有名になった二宮神社ですのでご存知の方も多いと思います。
この神社の祭神は天穂日命(あめほのひのみこと)、埴安命(はにやすのみこと)、太田命(おおたのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)です。
略縁起によると、元々は五郎江南崎、現在の今宿小学校辺りに鎮座していたようですが、正徳年中(1711~1715)にこの地二遷座したと伝えられています。
ここでは毎年正月3日に玉せせりが行われています。
福岡で玉せせりといえば筥崎宮が有名です。
箱崎宮の玉せせり(玉取祭)もやはり1月3日に行われます。
白ふんどしの男たちがふたつの玉を奪い合う勇壮な神事として広く知られています。
この玉に触れると悪事災難を逃れ、幸運を授かるといわれ、多くの競り子達が沿道からの勢い水を受けながら玉を取り合います。
箱崎宮の玉せせりを調べると子どもの玉せせりもありますが、やはり大人の男たちが中心のようです。
大して今宿の二宮神社の玉せせりは先導する大人の男の方たちはいるものの主役は子ども達。
赤ふんどし姿の子ども達が玉を持って町内を回ります。
二宮神社の境内、手水場(ちょうずば)近くには亀井少キンの立札が建てられています。
少キンの本名は友(とも)(号として少キン)といい、江戸時代、福岡藩藩校西学問所、甘棠館(かんとうかん)の初代館長、亀井南冥(なんめい)の子昭陽の娘です。
南冥は当時志賀島で発見された金印(国宝・福岡市博物館所蔵)の価値を見抜き、金印の保護に奔走した人物としても知られています。
当時西の甘棠館、東の修猷館と云われ、天明4年(1784)に唐人町に開校しましたが、寛政10年(1798)大火での類焼で甘棠館は焼失。
当時朱子学学問の主流となったため徂徠学(そらいがく)だった甘棠館は再建されませんでした。
さて少キンですが、南冥の孫として、寛政10年に姪浜村に生まれました。
甘棠館がなくなった後、南冥は姪浜で亀井塾を開き多くの門弟で賑わいました。
少キンは才媛として知られ、しかも稀に見る美人だったようです。
少キンは父昭陽の門下生怡土郡井原村出身の三苫源吾(みとまげんご)(号・雷首(さいしゅ))と結婚し、夫婦で亀井塾の後を継ぎました。
その後、塾は今宿へ移転しました。
江戸時代、男性中心の社会の中にあって、女性でありながらその絵や書が広く認められ活躍した少キンは今宿が誇る人物の一人と言えるでしょう。
二宮神社を訪れた際にはぜひこの立札もご覧になってください。
(田中)
*二宮神社には通常は宮司さんがいらっしゃいません。
お札が欲しいかたは産宮(さんのみや)神社(糸島市波多江)まで行けば購入できると氏子の方から伺いました。