■「筑前今宿歴史かるた」から今宿の歴史を学ぶ 31
青木の駒曳地蔵
今宿青木に常楽寺というお寺があります。
このお寺は臨済宗の開祖、明菴栄西が開いたと伝えられています。
栄西は南宋へ留学、当時繁栄していた禅宗を学び、帰国後、博多に聖福寺、京都に建仁寺を建設しました。
また日本で初めて茶葉を栽培したことでも知られています。
常楽寺の境内には榎の巨木(保存樹に指定)をはじめ、寒椿や椋の木が茂り、お寺の歴史の長さを感じさせます。
このように由緒のある古刹ですが、このお寺の境内に「駒曳地蔵」があることをご存知でしょうか。
この地蔵が建設された裏には悲しい物語がありました。
「糸島伝説集」によると、弘化3年(1846)の12月のある日、青木村の久保家の下男、与助が主人の言いつけで博多の町に年貢米を納めに行きました。
その帰り道、今の黒門橋近くの道で何に驚いたのか引(曳)いていた馬が暴れ、たまたま通りかかった武士が馬を避けようとして道端の溝に片足を落とし袴の裾を汚してしまいます。
与助はまだ18歳、無意識に馬を引いて逃げようとしたところを捕まりました。
捕まった時与助は頭を地面にこすりつけて許しを請いましたが、袴を汚した武士、池上新之亟は許さず、与助は今宿にある牢屋へ入れられてしまいました。
結局、次の年の春、家族、庄屋や今宿の村人らの必死の助命の嘆願も届かず、与助は池上の屋敷に運ばれ手打ちになりました。
捨てられた与助の遺骸を与助の遺族や村人たちは泣く泣く拾い青木村へ帰ったといいます。
後日、この事を知った博多聖福寺の和尚が激怒しました。
「そのようなことで馬子を切って捨てるとは福岡藩の政道も地に落ちた」と藩庁に怒鳴り込み、その上、青木村まで出かけて与助の霊を弔い『大観慈音』という戒名を書いて贈りました。
これが近隣の評判になり墓前には参拝する人が訪れ、香煙の絶えることがありませんでした。
やがて村人たちは与助を駒曳地蔵尊として祀り常楽寺の境内にお堂が建てられました。
ちなみに与助が馬を引いて福岡を出た日が12月6日だったため、その日に今宿方面から福岡方面へ出掛けることを忌み嫌う風習が長らく残っていたそうです。
当時、身分制度で武士は頂点にいたとはいえ、引化3年は江戸時代も末期。
袴の裾を汚しただけで相手(しかも少年)の命を奪う行為は周りからも批判されたようです。
その後、新之亟は頭を丸め、僧籍に入ったとの話も伝わっています。
与助がしばらく入っていたという牢屋は今の横町祇園神社の近くで、江戸時代は群屋(ぐんや)(当時の町役場のようなもの)などが置かれていた側にありました。
その後巡査駐在所となり、大正時代に駐在所が女性解放運動家の伊藤野枝の実家を見張るために移動。
現在は横町にあった牢屋の痕跡は残っていません。
与助の悲しい物語は語り継がれ、馬を曳いた地蔵として今も境内に祀られています。
(田中)
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■平成29年(2017年)1月1日今宿タイムズ412号
・玄洋・今宿の神社で初詣 地元神社の年始行事
・大晦日には除夜の鐘
・わが町の人口 955名増の29,793名
・玄洋校区 人尊協研修会
・今宿地区新春のつどい
・玄洋校区 各町内 師走の空に杵の音
・うわごと
・謹んで新年のごあいさつを申し上げます
・今宿校区 子どもマラソン大会
・叶岳からの眺望が素晴らしくなりました!
・玄洋校区子ども会 駅伝・マラソン大会
・一度きりの人生を懸命に生きる
・新 民生児童委員 主任児童委員紹介
・「筑前今宿歴史かるた」から今宿の歴史を学ぶ 31
・秋なのに咲いている青色朝顔が
・この実なんの実、気になる実
・コーヒーブレイク
・今月の男女共同参画 49話
・今宿五行歌会(自由詠)
・ご芳志の御礼