■「筑前今宿歴史かるた」から今宿の歴史を学ぶ 28
元寇と元寇防塁 後編
今回は元寇防塁についてご紹介いたします。
文永の役(1274年)で辛くも蒙古の軍勢を追い払った日本軍でしたが、再度の襲来に備えて準備を始めました。
文永の役の翌年の健治2年(1275年)には畿内の武士たちが迅速に九州に移動できるように西日本の関所や川などの通行税を廃止。
また「蒙古警護結番(もうこけいごけちばん)」を定め、九州の領主へ3ヶ月毎の警備を課しました。
そして更にその翌年の健治2年(1276年)には敵の侵入を防御するための石築地(石の建造物)の築造が始まりました。
この石築地は博多湾沿い約20キロに渡って、東は香椎から西は今津まで築かれました。
これが元寇防塁です。
本来の呼び名は石築地(異国警固石築地(いこくけいごいしついじ))でしたが、昭和になってから当時九州大学の医学博士で考古学者の中山平次郎氏が元寇防塁と呼ぶようになり、この名称が定着しました。
この石築地は高さ約2メートル、基底部が幅約3メートルの台形で海側は切り立っていて敵の侵入を拒み、陸側からは人や馬が上がりやすく作ってありました。
九州の領主達がそれぞれに持ち場を決め、短期間に築造。
長垂海岸を受け持ったのは豊前国で長垂山の花崗岩、今山の玄武岩を始め、毘沙門山の蛇紋岩や姪浜の砂岩など近くの山々の石を使って造られました。
蒙古は兵器として大量の馬を船に乗せてきました。
この石築地は蒙古の馬の侵入を防ぎ、また石弾や弓矢を防ぐ効果があったと考えられます。
文永の役から7年後の弘安の役(1281年)でも一部は破られたものの、防塁はその役目をしっかりと果たし、蒙古軍の侵入を防ぎました。
弘安の役、閏7月1日に大型台風が九州を襲います。
この台風はその後中国地方、近畿地方にも大きな被害をもたらしました。
そして死闘を繰り広げる両軍にも大きな被害を与えました。
しかし、言われているように神風(台風)で蒙古軍が全滅したわけではなく、台風通過後も両軍は志賀島や鷹島で戦っています。
しかし、台風で逃亡する船も出て日本軍の士気が上がりその後の日本軍の勝利につながりました。
防塁はしばらくの間補修されていましたが、次第に砂に埋もれていきました。
黒田家2代藩主の頃、長垂海岸には潮風から田や畑を守るためたくさんの松が植えられました。
砂に埋もれた防塁の上に植えられた松は次第にその根を張り、防塁の石を抱き込みながら成長。
松は枯れてしまいましたが、古株と抱き込んだ防塁の石は現在も松林の中で見ることができます。
冒頭のかるたの読み札はこの情景を詠んだものです。
長垂海岸の防塁はこの松のおかげで当時のまま砂の中に埋もれています。
(田中)
参考文献
蒙古襲来 服部英雄著他
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