■「筑前今宿歴史かるた」から今宿の歴史を学ぶ 7
唐津街道と宿場町「今宿」
唐津街道は、江戸時代、17世紀末に長崎街道から分かれ、脇街道として整備された街道で、豊前国大里(現在の北九州市門司地区大里)から肥前国松浦郡唐津(現在の佐賀県唐津市)までをいいます。この街道は、陸上交通路として人々の往来、物資の輸送はもとより沿線の福岡藩、唐津藩の参勤交代にも使用されました。
唐津街道が整備された当初、姪浜宿の次の宿は前原宿でした。このふたつの宿場の距離が遠かったため、その中間地点として「今宿」は作られました。「今」という字には新しいという意味があり、新しい宿場=今宿と名付けられました。
ちなみに、今宿から姪浜までは1里11丁(5,127m)、今宿から前原までは2里25丁(10,581m)あります。
1700年代初め頃には宿場町今宿は出来ていたようです。宿場町の東端には搆口(かまえぐち)と呼ばれる土塀で築かれた大きな門があり、その近くには宿場から宿場へ荷物を運ぶ馬士(まし)達が馬を繋ぐ場所がありました。馬を繋いだ馬つなぎ石は現在も残っています。また群屋と呼ばれる役人の詰所が置かれ、人や物を監視していました。この群屋の前には牢屋も置かれていたようです。参勤交代の際は、大名の休息所になった諸国屋と呼ばれる宿もありました。
また、西松原や東松原には、油屋や米屋、瓦屋、酒屋などの商家が立ち並び、町人の町として人や物が行きかいました。当時は、横浜に福岡藩の米倉があり、人や物が集まり賑わっていたことでしょう。明治43年には北筑軌跡が今川橋から加布里までの路線で開通し、唐津街道の長垂部分に山裾を一部削って道が造られ、このため山越えのルートは使われなくなりました。
ここ今宿では、西松原、東松原地区の旧道と横町から上町天満宮への道など、当時とさほど変わらない道幅に家が立ち並んでいます。また馬つなぎ石や櫻井往還道標の石柱なども残っていて、今でも江戸時代の唐津街道の名残を偲ぶことができます。
今宿かるたに「異人も通った…」とありますが、長崎街道の脇街道であった唐津街道をオランダや中国の異人さんも通っていたかもしれません。
(田中)
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■今宿タイムズ 平成26年12月1日 第387号
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・今宿公民館 サークル文化祭
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・第5回 玄洋公民館 老人いこいの家 建設準備委員会
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