★「筑前今宿歴史かるた」から今宿の歴史を学ぶ 46
今宿五郎江遺跡 前編
今回の読み札は今宿五郎江遺跡を詠んだものです。
五郎江遺跡は弥生時代の大規模環濠(かんごう)集落の跡です。
弥生時代、人々は水田を作る傍ら、魚や貝が取れる、また船によって交易ができるなどの利点から海に近い場所に集落を作りました。
ここ五郎江(江は海の意)もその名が示す通り、昔は海に隣接する場所でした。
まだ、遺跡の価値がわからなかった明治時代(明治35年5月)、環濠集落の中心であった、今宿平野のこの場所に現在の今宿小学校が建てられました。おそらく遺跡の上に建てられた小学校は全国でもここだけでしょう。
今宿校誌によると、開校後改築や増築を繰り返し、昭和27年の校地拡張や昭和59年の校舎改築の際にはそれに合わせて発掘調査も行われ、様々な遺物が出土しています。小学校周辺地域は平成に入ってからも大規模な発掘調査が何度も行われ、平成14年からの調査ではコンテナ8000箱ほどの土器、木製品、石製品、金属製品などが出土しています。
五郎江遺跡の環濠の掘削時期は弥生時代後期の始め(1世紀)頃と考えられ、規模は南北270m、東西方向の間隔が240mのやや楕円形の濠がめぐらされています。
平成18年の調査では遺跡の北西にあたる地点で、環濠が一旦途切れ、20mほどの間をおいて掘削していたことが判明、集落の出入り口であった可能性が出てきました。平野の台地の部分に住居があり、住居域を囲むように谷を利用し溝を掘って環濠を作りました。
住居部分の台地からは弥生後期に造られた掘立柱建物を示す柱穴も多く確認されました。
環濠は弥生時代後期後半にはその大部分が埋まり、その後次第に谷全体が埋没していき、それに伴って大量の土器が環濠に投げ捨てられていたことが調査でわかりました。
環濠は集落の境目を示すと共に、外敵から村を守るために造られたものです。
その環濠を埋めた弥生後期後半はこの地域に村を治める強力な首長が現れ、地域の安全が確保されたのかもしれません。
五郎江遺跡の周りには首長墓とみられる前方後円墳が点在しています。
特に五郎江遺跡のすぐ側には今宿大塚古墳もあり、古代にこの地に多くの人々が村を形成し、生活を営んでいたことがわかります。
※次号後編では遺跡から発掘された遺物について詳しくご紹介いたします。
参考資料
「今宿校誌」他
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★平成30年(2018年)6月1日 今宿タイムズ第429号
・今宿校区自治協議会 平成30年度総代会
・平成30年度 玄洋校区自治協総代会開催
・着任挨拶
・思いやりの街 玄洋校区人尊協総会
・今宿商工業共同組合 第59期通常総会
・今宿・玄洋校区 各町内会の総会
・今宿おゆずり会開催開催のお知らせ
・うわごと
・「筑前今宿歴史かるた」から今宿の歴史を学ぶ 46
・平成30年度今宿・玄洋団体役員
・よろしくお願いします。今宿・玄洋小・玄洋中・ PTA役員
・恋がうまくいくかな? 今宿瓦のハート
・えっ!蚕にクヌギ?どうして?
・文化財展示室オープン記念イベントと今宿歴史散策!!
・コーヒーブレイク
・あっ!今宿海岸に牛が2頭!
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・ご芳志の御礼