「筑前今宿歴史かるた」から今宿の歴史を学ぶ25

「筑前今宿歴史かるた」から今宿の歴史を学ぶ25

「筑前今宿歴史かるた」から今宿の歴史を学ぶ25

■「筑前今宿歴史かるた」から今宿の歴史を学ぶ25

 「筑前今宿歴史かるた」が今宿公民館の高齢者教室で作成された平成12年当時、この辺りはまだまだ田んぼが多くありました。

 今回の読む札はそのような情景を詠んだものです。

 6月になると特に今の今宿西・西都町内辺りは田植えが行われ、一面に青田が広がっていました。

 今回は今宿村(町)の成り立ちや農業(稲作)について調べてみました。

 この今宿の地は古くは縄文時代から人が住み、村を作っていたことがわかっています。弥生時代は伊都国の一部でした。

 古墳時代にはこの辺りに大きな村が形成されていたことが大塚古墳に代表される首長墓からもわかります。

 今宿から周船寺にかけての一部は今宿古墳群といわれ、大少様々な古墳が320基ほど確認されています。

 今宿小学校が弥生時代の五郎江遺跡(環濠集落)の上に建てられているのは有名ですが、この頃には水田ができ稲作が始まっていたのでしょう。

 今宿は永禄年間に原田氏によって作られた町です。

 享和元年(1801)徳永村庄屋惣エ衛門の残した文書によると「今宿は永禄年中の開発と書付き有之由承候」とあります。

 永禄年間は日本の歴史でいうと織田信長が天下取りをしていた頃、というとわかりやすいでしょう。

 徳正寺の記録にも永禄2年(1559)に立花但馬により谷が焼き打ちされ寺も焼けたとあります。

 これを機会に谷村から分村し、徐々に村を形成、これが今の松原・上町・横町の始まりです。ここが後に唐津街道の宿場のひとつとなり、今宿(新しい宿場の意味)と名付けられました。

 今の三菱工場や三菱体育館辺りは、昔は一等田と呼ばれ良質の米ができるところでした。この田を風や潮から守るために黒田2代藩主の頃に長垂海岸に松が植えられました。

 その一方、大きな干潟だったところを干拓し新しい田が次々と開かれていきました(これについてはタイムズ第403号の「宮崎安貞、干潟、お開き池」に詳しく載せています)

 この読み札が作られてから18年、今宿は劇的な変化を遂げています。九大の伊都キャンパス移転に伴い、新駅もできました。

 新しくできた九大学研都市的前には高層マンションが立ち並び、大型商業施設もでき人口も年々増加しています。

 明治22年、糸島郡今宿村発足当時は473世帯、2333人、昭和16年に福岡市に合併当時は525世帯、2620人だった人口が昭和46年には2246世帯、8073人に増え、平成26年には今宿・玄洋両校区で12097世帯、28838人と驚くほど増加しています。

 見渡す限りの青田は無くなりましたが、これも時代の移り変わりでしょう。

(田中)

参考文献 今宿校史他

 

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