「筑前今宿歴史かるた」から今宿の歴史を学ぶ 22

「筑前今宿歴史かるた」から今宿の歴史を学ぶ 22

「筑前今宿歴史かるた」から今宿の歴史を学ぶ 22

■「筑前今宿歴史かるた」から今宿の歴史を学ぶ 22

 宮崎安貞と開墾、干拓、お開き池

 伊都区画整理事業によりここ今宿地区も様変わりしました。今のように高層マンションや住宅が立ち並ぶ景色からは想像できませんが、ほんの数年前までは田んぼが広がるのどかな場所でした。

 元々この地は海に面して干潟が広がる土地でしたが、江戸時代頃から干拓が行われ、水田が開かれました。新しくできた水田は「開き」と呼ばれ、場所によって「○○開(ひらき)」と呼ばれました。

 ちなみに玄洋小学校の所は「上開(かみびらき)」、国道より北川は「下開(しもびらき)」。「向開(むかいびらき)」と呼ばれる場所もあります。玄洋中学校の近くには「大正開(たいしょうびらき)」と呼ばれているところがあり、これは名称から大正時代に新しく干拓されたことがわかります。

 今回の読み札にある御開池はこのように新しくできた田に水を供給するために造られた農業用ため池で、今宿東3丁目にあります。御開池がいつ頃造られたのか、詳しい資料がなくはっきりしませんが江戸時代だと思われます。

 今宿の干拓の歴史に欠かすことのできないのが、江戸時代の高名な農業学者、宮崎安貞です。安貞は元和9年(1623)に広島藩士宮崎儀右衛門の次男として生まれました。儀右衛門は200石取りの山奉行でした。

 その後、父の元を離れ、筑前福岡の2代藩主黒田忠之に200万石取りの山奉行としてして仕えることになったのは、正保4年(1647)で安貞が25歳の時です。

 しかし、山奉行の要職を30歳過ぎ頃には辞し、浪人となって諸国遍歴の旅に出ています。

 そして、誰に命じられたわけでもなく当時農業の先進地帯であった、近畿、中国、山陽筋の農業視察を行い、農業について学びました。

 数年後、福岡に帰ってきてからは、周船寺村字女原(現在の西区大字女原)に住みつきました。そして農民と共に農業を行い、稲作のみならずたばこや木綿のように金銭収入をもたらす作物の栽培や「宮崎開」と呼ばれる新田の開発を行いました。

 安貞は元禄10年、75歳で没しました。

 彼が生前書き留めた膨大な農業指導書は死後、貝原益軒らによって「農業全書」として出版され、かの水戸光圀も絶賛したと伝えられています。

 墓と共にその偉業を称える石碑、当時の書斎(移築)が地元の方々により今も大切に保存されています。

 (田中)

参考文献

 *山内勝也氏が著した「宮崎安貞」についての資料より

 

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■今宿タイムズ平成28年(2016年)4月1日 第403号

第25回 今宿商工まつり
春の巣立ち 玄洋中学校・卒業証書授与式
着任のご挨拶 西警察署長 中村 隆徳
玄洋校区 横浜自治会自主防災避難訓練実施
今宿校区 人権啓発標語入り 横断幕完成
横浜「八幡桜」ライトアップ
うわごと
赴任ごあいさつ
ご挨拶 今宿駅 駅長 吉森 正純
玄洋小学校にて 二分の一成人式
「筑前今宿歴史かるた」から今宿の歴史を学ぶ 22
爽やかな青空のもと 玄洋校区 健康ウォーキング
春を告げる日本の花「桜」
春かすみの中の北帰行
今宿小通学路 三菱電機南側道路拡幅工事に着手
チューリップ祭りのご案内 農楽苦会(のらくろかい)
[玄洋校区]「紙リサイクルステーション」からのお知らせ
卒業・入学は「花いっぱいで」おめでとう!
春いちばん「つくしんぼう」を見っけ!
コーヒーブレイク ウォークラリー
今月の男女共同参画 41話
西区市民吹奏楽団 第14回スプリングコンサート
玄洋句会 蕗の薹(フキノトウ) 2月の尽(ジン)
ご芳志の御礼