■栞シリーズ 歴史のまち今宿9
「太閤水」
太閤といえば、豊臣秀吉です。秀吉は文禄元年(1592年)大陸遠征の号令を発します。そして肥前名護屋城(佐賀県唐津市)へ次々と大名が集結。ここから大陸へ日本の軍勢が出兵して行きました。秀吉自らも名護屋城へ出陣することになり、その道筋となるこの糸島の旧街道も整備されました。
当時の天下人、太閤さまのお通りということで太閤にかかわる伝統が各地に多く残されています。
そのひとつが「太閤水」と呼ばれる井戸や湧き水です。太閤水と呼ばれる場所は福岡県だけでも数か所あります。
ここでご紹介するのは、長垂昆沙門天の入り口にある湧き水です。長垂山の花崗岩の地層を流れるため天然のミネラル水で、今宿の人からは昔から「薬水」といわれ名水として知られていました。このため酒作りや正月の若水などにも利用されていました。実際に太閤が利用したかどうか真偽のほどは分かりませんが、いつの頃からかこの水が太閤水と呼ばれるようになりました。
また、この水にはおむひとつのこぼれ話があります。
江戸時代、この湧き水を利用してこの場所には茶店がありました。今宿に住む商人が博多に出る途中、この茶店に立ち寄った際、和歌を一首したためました。
「立ち寄りて飲めよ旅人くすり水 命も長く生の松原」
商人はうまくできたとこれを店主に渡し、店主はそれを店に貼っておきました。
まもなく商人と入れ違いに従者をつれた老人が東の方からやってきました。老人は茶を飲みながらこの和歌を眺めていましたが、やがて
「立ち寄りて汲めよ旅人くすり水 いのちも延びて生きの松原」
と改作して立ち去ります。
その日、博多での所用を済ませて、帰りに立ち寄った先ほどの商人はこの和歌を見て感心しました。そしてぜひ会いたいと当時今宿の油屋に泊まっていたこの老人を捜し当て、その夜は遅くまで老人から和歌について教わったそうです。和歌に詳しいのも道理でこの老人は実は肥前鍋島藩の老公であった…という水戸黄門様のようなおちまでついたお話も真偽のほどはわかりません。
現在の太閤水はその後、水流も減り、水質も悪くなったので人々も利用しなくなりましたが、現在もこの場所で当時の面影を残しています。(田中)
参考文献「糸島伝説集」
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平成25年(2013年)8月1日第371号
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