■栞シリーズ 歴史のまち今宿6
元寇
その背景と文永の役
(後編)田中
文永の役と元軍撤退の謎
1274年(文永11)、フビライからの国書を無視した日本に対して、ついに元(蒙古)軍が攻めてきました。これが文永の役です。元軍は10月3日に高麗の合浦(がっぽ)を出発、途中、対馬・壱岐に上陸。対馬守護代宗助国(そうすけくに)、壱岐国守護代平景隆(たいらのかげたか)の軍を全滅させ、19日に博多湾に侵入。20日には博多湾西部、今津から今のシーサイド百道付近に上陸してきました。船900艘、兵士約3万人。兵士の中には蒙古人の他、女真人、漢人、高麗人など今まで征服してきた地域の兵士が多数含まれていました。日本の総大将は椿西奉行の小弐資能(しょうにすけよし)。子の影資(かげすけ)が戦闘指揮にあたりました。
元軍3万人に対して九州全土から集結した御家人達は5千人余り。その圧倒的な差に日本勢は大苦戦を強いられます。戦い方も、日本勢の一騎打ちに対して元軍は集団戦。元の打ち鳴らす太鼓やどらの大きな音に日本の騎馬武者が乗った馬は驚き、前に進まず、名乗りを上げている間に元の集団から一斉攻撃されました。また、元軍の弓矢は半弓と呼ばれる小型のもので、日本の長弓よりよく飛ぶ上に矢の先端に毒を塗ってあって当ると傷は浅くてもひどいダメージを受けました。「ていはう」という火薬を炸裂させる武器もあり、慣れない戦闘に苦戦する姿は「蒙古襲来絵詞(えことば)」に今も残されています。
しかし、劣勢にあって活躍した武者もいました。肥後の菊池武房(きくちたけふさ)一党や竹崎季長(たけざきすえなが)、また小弐景資の奮闘ぶりは知られるところです。この時、景資の放った矢で、元軍副将・劉復亮(りゅうふくこう)が重症を負ったとされています。しかし、日本勢の検討も空しく、この日の戦いは元軍の圧勝で終わりました。大宰府辺りまで撤退した日本勢は決死の覚悟で翌日の先頭に備えました。ところが、その夜なぜか元は全軍船に引き上げ、そして、21日の朝、座礁した一隻を除いて、大船団はなぜか博多湾からいなくなっていまいsた。通説では夜になり、一旦湾に引き上げたところに暴風が吹いて船は沈んだ(神風説)とされています。しかし、湾内には難破船の残骸もなく、また、そのような記録も残っていません。優勢だった戦闘を放棄して朝鮮へ引き上げようとした理由は未だ謎です。日本勢の実力が想像以上で元軍の損害も少なくなかったという説や国力の差を見せ付け交渉を有利にするためだけだったという説もあります。
そして引き上げる途中、玄界灘で暴風雨にあい多くの船が海中に没しました。朝鮮の史書「東国通艦(とうごくつがん)」には、この日本遠征で戦死・溺死したもの1万3500とあります。日本は奇跡的に文永の役をしのぎました。そしてなぜ一晩で元軍が引き上げたのか今も謎のままです。
<参考文献>
新説戦乱の日本史「蒙古襲来」
絵で知る日本史「蒙古襲来絵詞」
「蒙古襲来絵詞」(馬を射られながら)蒙古軍に突撃する竹崎季長と、応戦・逃亡する蒙古兵 |
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